仏説観無量寿経 〜 韋提希の悲しみと救い

『観無量寿経』は、「浄土三部経」と呼ばれる浄土宗の大切なお経の、ひとつです。三部経の中では中くらいの長さで、『観経』とも呼ばれています。ここでは、王妃・韋提希(いだいけ)を主人公として、このお経のストーリーを物語風にまとめています。

(一) 王舎城の悲劇

 お釈迦さまが王舎城という町に滞在しておられたころ。王舎城の町を治めていたのは、頻婆娑羅(びんばさら)王です。王妃・韋提希(いだいけ)との間には、阿闍世(あじゃせ)という一人の王子がありました。

(実は王子が生まれる前、王と王妃は占いで言われていました。「ある仙人が王子として生まれかわるでしょう」 ところが待ちきれぬ王は仙人を殺してしまい、仙人は復讐を誓いながら死んでいきました。そして阿闍世王子が生まれ、復讐をおそれた王は一度だけ、王子を高い所から産み落として殺そうとしましたが、王子は死なず、そのまま成長しました。)

 ある時、調達(ちょうだつ)という悪者が阿闍世王子の生まれの秘密をばらし、こう進言しました。「王を殺して、王位を奪わなくてはいけません。」 秘密を知って悲しみにくれた王子は、王を牢に閉じこめ、飢え死にさせようとしました。

 王妃・韋提希は、牢中の王に飲食を届けました。見張りにみつからぬよう、衣服の飾りや冠にぶどう酒を詰め、身体にも食べ物を塗った上に服を着て、届けました。また王の心中を気遣ったお釈迦さまは、弟子を牢につかわして教えを授けました。悲嘆にくれていた王も、身心ともに癒されていきました。

 それを知った阿闍世王子は怒り狂い、剣を抜いて、自分の母である王妃を殺そうとしたのです。息子の剣を首筋にあてられた王妃・韋提希は、どんな気持ちだったでしょうか。そこに王子の臣下二人がいさめました。「昔の書物を見ても、母を殺すという最悪の罪を犯した王はありません。どうかおやめください。」 そこで王子は反省し、母を殺すのはやめて、別の牢に閉じこめたのでした。

(二) 韋提希の悲しみと希求

 牢に閉じこめられた王妃・韋提希の心をおそったのは、この世を生きることへの、尽きることのない苦しさ・悲しさでした。ただ、韋提希にとって幸運だったのは、日ごろからお釈迦さまの説法を聞き、お釈迦さまの人格に触れていたことでした。

 お釈迦さまだって人間である。どうすればお釈迦さまのように、この苦しみから逃れられるのだろうか。自分には何が足りないのだろうか。

 韋提希の悲しみははじめ、この世界・この運命への呪いでした。出口のない、暗い暗い憂いでした。それが、お釈迦さまという人格を“鏡”として、自分への反省となり、苦しみのない世界への希求となったのです。韋提希は、出口を求めました。一筋の光を求めました。

 そのとき、弟子の目連(もくれん)と阿難(あなん)を引きつれて、お釈迦さまが韋提希の牢に現れました。韋提希はお釈迦さまに懇願しました。「どうか私を、苦しみのない世界へ連れて行ってください」

(三) 《仏の力》ということ

 そこでお釈迦さまは口を開きました。口からは、いろいろな仏の国の姿が韋提希に説き出されました。その説法に韋提希は、それらの国々を目の当たりに見たのでした。中でも阿弥陀仏の国である極楽の姿が韋提希の胸に強く迫りました。

「どうすれば阿弥陀仏の極楽に行けるのですか。」 阿弥陀仏は《凡夫》の救済を志す仏でしたから、知らず知らず、《凡夫》である韋提希の心に強く訴えたのです。

 ところが韋提希はあと一歩、その阿弥陀仏の志を受け入れていませんでした。それを見抜いたお釈迦さまは言いました。

「阿弥陀仏の世界は遠くない。おまえは今、善行を積んで極楽に生まれようと欲している。それも可能である。善行とは、諸々の仏と同じように、道徳・戒律・修行につきすすむことだ。しかしおまえは諸々の仏とは違う《凡夫》だから、《仏の力》によって極楽に生まれなさい」

 しかし韋提希は、《仏の力》ということに納得がいきませんでした。

(四) 極楽に生まれるには

「私はいま説法を聞いて、《お釈迦さまの力》で、極楽の姿を目の当たりに見ることができました。ですが未来の衆生はお釈迦さまの説法を聞くことができません。ですから《お釈迦さまの力》によらずに《自力》で極楽を見る方法を教えてください。」

 そこでお釈迦さまは韋提希と阿難に、極楽の光景をまのあたりに見るための瞑想法を説きました。

(1)極楽のある西方を向いて坐り日没をよく見て、また常に日没を思い浮かべるようにしなさい。
(2)次に水や氷を見なさい。極楽の瑠璃のような大地です。その輝きが法を説くのを聞きなさい。
(3)次に極楽の大地を思い続け、そのまま禅定に入って、極楽の大地をまのあたりにしなさい。
 これで、死後いつか極楽に生まれます。
(4)次に宝の大樹を思いなさい。七宝の幹から枝葉、それを覆う装飾、宮殿、天人を思いなさい。
(5)次に池を思いなさい。宝珠から水が注ぎ、底には砂金、水面には蓮華。水の音が法を説きます。
(6)次に絢爛な宮城を思いなさい。天人が奏楽をなし、その音楽が法を説くのを聞きなさい。
 これで、死後すぐに極楽に生まれます。

 この説法は極楽を見るためのものでした。しかし極楽を見ることを超えて、そのとき韋提希の目に映ったのは、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩が空中に立っている姿でした。

 それでも韋提希はまだ、《仏の力》に気づきませんでした。

(五) この世で阿弥陀仏に出会うには

「私はいま説法を聞いて、《お釈迦さまの力》で阿弥陀仏に出会いました。ですが未来の衆生はお釈迦さまの説法を聞くことができません。ですから《お釈迦さまの力》によらずに《自力》で阿弥陀仏に出会う方法を教えてください。」

 そこでお釈迦さまは韋提希と阿難に、この世で阿弥陀仏に出会うための瞑想法を説きました。

(7)仏の坐る蓮華を思いなさい。無数の光る花びらに、四本の宝柱。すぐに極楽に生まれます。
(8)次に蓮華に坐る黄金の仏像を思いなさい。仏を想う心が仏になります。数々の仏が訪れます。
(9)次に阿弥陀仏が光で自分を照らす姿、その慈悲を思いなさい。仏にさとりを約束されます。
(10)次に観音菩薩が衆生と共に苦しみつつ、仏の方へ導く姿を思いなさい。現世の苦を除きます。
(11)次に勢至菩薩が智慧の光で諸仏の世界を説く姿を思いなさい。諸仏の世界を訪ねます。
(12)次に自分が蓮華の中にいて、華が開き極楽の光景が現れるのを思いなさい。仏に護られます。

「韋提希よ。《凡夫》の《自力》ではとても、阿弥陀仏に出会うことはできません。しかし阿弥陀仏の本願の力があるので、必ずなしとげられるのです。これが最後の、第十三の瞑想です」

 このとき韋提希は初めて思い至りました。いくらお釈迦さまの説法を聞いても、いくらこれらの瞑想によっても、自分のような《凡夫》が極楽を見て阿弥陀仏に出会うことは無理なのです。なのにそれが可能になる。それは、阿弥陀仏の本願の力ゆえだったのです。これこそが《仏の力》だったのです。

(六) ただ念仏だけで極楽に生まれること

 こんどはお釈迦さまが、自ら説きはじめました。

(1)まこと・ひたむき・ねがいの三種の心で、大乗仏教に邁進して極楽を願う者は、極楽に生まれます。
(2)また大乗仏教をよく理解して極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(3)また大乗仏教をただ信じて極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(4)また上座部仏教に邁進して極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(5)また上座部仏教を時に応じて修して極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(6)また悪事を犯さずに暮らし、臨終に初めて極楽を聞いて極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(7)また悪事を犯し、臨終に初めて極楽を聞き、南無阿弥陀仏と申して極楽を願う者も、極楽に生まれます。
(8)また悪事を犯し、仏教に反逆し、臨終に初めて極楽を聞く者も、極楽に生まれます。
(9)また重罪を犯し、臨終に初めて極楽を聞き、南無阿弥陀仏と申して極楽を願う者も、極楽に生まれます。

 韋提希は自分が《凡夫》であることを味わいました。極楽に生まれるには、《凡夫》のどんな修行も善行も悪行も関係ないこと。ただ阿弥陀仏の《仏の力》で極楽に生まれること。その大慈悲の存在をはっきりとさとりました。極楽の光景と阿弥陀仏の姿をはっきりと見ました。

 お釈迦さまは言いました。「あなたたち誰もが極楽に往生し、諸々の仏に出会うのです。」

(七) 念仏する者におこること

 お釈迦さまは阿難に言いました。「この教えは、極楽と阿弥陀仏を観ずる経といい、また罪を除いて仏前に生まれる経といいます。私の説いた通り心に受け止めて、片時も忘れずに阿弥陀仏を思い続けなさい。」

 また言いました。「阿弥陀仏の名を念ずる人は、めったにいない、人々の中の白蓮華のような存在です。また観音菩薩・勢至菩薩が良き導き手となります。阿弥陀仏の国は遠くありません。阿難よ、おまえは阿弥陀仏の名をよくたもち続けなさい。」

 その場にいた目連、阿難、韋提希たちは、お釈迦さまのこの教えを聞いて、大いに歓喜したのでした。

 そして、お釈迦さまは目連、阿難とともに、滞在しておられた耆闍崛山にお帰りになりました。帰ってから阿難は、上の説法を大衆のためにもう一回説きました。それを聞いた聴衆はまた、大いに歓喜して、仏を礼して去っていきました。

 観無量寿経はこれで終わります。