「上・中・下の往生」の意味 

 

「九品仏」のいわれ

 「九品仏」と書いて、何と読むでしょうか。正解は「くほんぶつ」です。私は東急大井町線の駅名として初めて知りましたが、「品」と書いて「ほん」と読むというのは、難しい読み方ですね。

 九品仏の駅名は、その土地のある浄土宗の名刹・浄真寺(じょうしんじ)にちなんだものです。上品堂(じょうぼんどう)、中品堂(ちゅうぼんどう)、下品堂(げぼんどう)という三つのお堂に、それぞれ三体の阿弥陀仏像が安置されています。九つの阿弥陀仏像があることから、九品仏というのです。

 この九体の阿弥陀仏像のいわれは、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』という経典に見ることができます。いま、この経典のあらすじを簡単にまとめてみると、次のようになります。

 インドのマガダ国の王妃ヴァイデーヒーは、あるとき王子の政治的反逆を受け、国王ともども囚われの身となるという、権力と名誉の争いのなかでの家族の崩壊を経験しました。そして、真実の人生とは何かを求めて、お釈迦さまのお話を聞くことになります。

 それに対してお釈迦さまは、阿弥陀仏の存在をお示しになり、それを中心に生きていくべきことをお話しになりました。そして、そのためになすべき様々の実践を並べ説かれました。その中には、心をしずめて阿弥陀仏の存在をさとる「十三段階の瞑想法」があり、また心が散り乱れたままでも阿弥陀仏がさずける「九種類の人々への救い」がありました。

 「九種類の人々への救い」とは、この世に生きる人々を善から悪まで九種類にわけ、それぞれに対して阿弥陀仏の救いがあることを説かれたものです。九種類の人々は、それぞれちがった風に阿弥陀仏を見ることから、九体の阿弥陀仏像が彫られ、九品仏と呼ばれているのです。

『観無量寿経』の説く「九種類の人々への救い」

 王妃ヴァイデーヒーが聞いた、阿弥陀仏がさずける「九種類の人々への救い」とは、どんなものだったでしょうか。九種類の人々とは、まず人々を大きく三つにわけて、それぞれをさらに細かく三つにわけたものです。「上の上、上の中、上の下」「中の上、中の中、中の下」「下の上、下の中、下の下」です。経典では、つぎのようになっています。

上輩 上品上生(じょうぼんじょうしょう) 勇猛果敢な大乗仏教の行者
(じょうはい) 上品中生(じょうぼんちゅうしょう) 大乗仏教をよく理解し信じる者
上品下生(じょうぼんげしょう) 大乗仏教を信じうやまう者
中輩 中品上生(ちゅうぼんじょうしょう) 戒律をまもる上座部仏教の修行者
(ちゅうはい) 中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう) 上座部仏教の在家信者
中品下生(ちゅうぼんげしょう) 世間の道徳をまもる善男善女
下輩 下品上生(げぼんじょうしょう) 悪業を多くつくり反省のない悪人
(げはい) 下品中生(げぼんちゅうしょう) 戒をやぶり仏教をはずかしめる悪人
下品下生(げぼんげしょう) ありとあらゆる罪悪を犯した大悪人

 いま、この中から「上品上生」と「下品下生」について抜粋して、それがどんな人であり、阿弥陀仏はどんな救いをさずけるのか、述べてみようと思います。

●上品上生
【どんな人か】
 阿弥陀仏を信じ、一匹の生きものも殺さず、ありとあらゆる戒律を守り、人々のために仏教を学び修行して、阿弥陀仏の世界に生まれたいと一心に願う人です。
【どんな救いをさずかるか】
 阿弥陀仏はその自らの姿をじきじきに現し、また無量の仏・菩薩・仏弟子たちが出迎え、ほめたたえます。この人が阿弥陀仏の世界に生まれると、阿弥陀仏はすぐにそのすがたをありありと見せます。またその世界はたえず真実を物語り、執着の心をなくさせます。この人は、世界中のさとった者たちの志をうけついで、さとりを約束され、常に阿弥陀仏のことを忘れず活動します。

●下品下生
【どんな人か】
 父母を殺し、聖者を殺し、仏教信者の和を乱し、自分を救おうとする人に逆らい、生き物を殺し、人のものを盗み、みだらな男女関係をむすび、うそをつき、かざった言葉をならべ、きたなく人をののしり、人を仲たがいさせ、欲のままにむさぼり、感情のままにいかり、自分勝手な思想信条をつらぬいた人です。それらを犯すだけ犯してから、死にゆく時になって、阿弥陀仏の存在を人に聞いて、その世界に生まれたいと欲します。
【どんな救いをさずかるか】
 阿弥陀仏はその人の罪をすべてとりのぞき、金色の蓮華をつかいにやって迎えます。これに乗って阿弥陀仏の世界に生まれますが、蓮華の花はかんたんには開きません。しかし阿弥陀仏は気の遠くなるほどの時間をかけてその閉じた花を開き、菩薩たちの説く真理のことばを聞かせ、さとりを求める心をおこさせるのです。

 ここでは、善から悪まで九種類に分けられた人々が、それぞれどのような救いを阿弥陀仏から受けとるのかが述べられています。みなさまご自身は九種類のうち、どこにあてはまっているでしょうか?

阿弥陀仏は、どうしてこんな差別をするのか

 この話をはじめて聞いたとき、私は思いました。阿弥陀仏はすばらしい人にはすばらしい救いを与え、悪人にはそれなりの救いしか与えないのだと。もっともな話のようです。誰しも、はじめはそう思うことでしょう。ですから私も、自分は九種類のどこにあてはまっているかと考えたとき、戒を守っていないから下品中生かもしれないけれど、中品下生か下品上生くらいに認めてほしいものだな、などと考えたものでした。

 ところがこれは、とんでもない大まちがいの解釈です。私たちはみな、下品下生であると認識しなければなりません。そこからはじまるのです。なぜでしょうか。

 世間の道徳にしろ、仏教的な戒律にしろ、私たちが一人の力で守れるものではないからです。私たちはみんな、道徳をやぶり、戒律をやぶっています。それが私たちの本性だからです。私たちひとりひとりは、みんな大悪人になる素質をそなえているのです。今は悪行をしていなくても、条件さえととのえば、誰でも大悪人になるのです。阿弥陀仏は、そんな迷い人を救おうというのです。

 善い人はほうびをもらう。悪い人は罰を受ける。それが常識的な論理です。ところが宗教的な論理は、それとは逆なのです。宗教的な救いは、いちばん悪い人を標的にしているのです。そして、そのいちばん悪い人というのは、自分です。ここのところが、阿弥陀仏を誤解しないでただしく知るうえで、いちばん大切なところです。

 ということになると、下の下である自分にも救いが与えられるというだけで、過分の恩であるということになります。阿弥陀仏はけっして、人を差別して、すぐれた人にすぐれたほうびを与えているわけではないのです。

 しかし、考えてみてください。そうは言ってもやはり、上品上生の人にはすばらしい救いが与えられているではありませんか。私は下品下生で十分――そう言って満足すべきなのでしょうか。

平等だからこそ上品を

 実はそれも、信仰の大いなる落とし穴です。法然上人は、次のようにおっしゃっています。

「阿弥陀仏の世界には、九品のちがいがある。我らは、どの品を目標とするべきだろうか。善導大師(=法然上人の崇敬した中国浄土教の祖師)のお考えは、次のようである。

『阿弥陀仏は真の仏であり、阿弥陀仏の世界は真の世界である。そんな世界には、迷いをすべて断ち切らないままの凡夫は、本来どうしても生まれることができないはずだ。しかし阿弥陀仏が不思議なる本願を建てたから、このさまよう罪悪の凡夫が、たった一や十の念仏でその世界に生まれるのだ』

 善導大師はこのように解釈しておられる。なのに大昔からいままで多くの人は、『下品でも満足だ』と言って、上品を願わなかった。これは、自分は悪業が重いから無理だろうと恐れて、上品をあきらめていたのだ。

 だがもし、悪業によって上品に生まれられないというならば、そもそも悪業によって往生すらできないと思わなければいけない。でもそうではなくて、私たちの悪業を超越した阿弥陀仏の本願の力によって生まれるのだから、上品に進むことも難しくはないと思わなければならない」 (法然上人の『三部経釈』 浄土宗聖典4:297)

 阿弥陀仏の世界への生まれ方には九段階の違いがあると、お釈迦さまはお説きになりました。私たちは一番上を願うべきなのでしょうか、それとも一番下で十分とするべきなのでしょうか。法然上人は上記のお言葉に、「一番上を願うべきである」とお示しになっています。

 そもそも一番下でよしとするときの、私たちの心のありようを考えてみてください。それは「私のような者だから一番下でもかまいません」と卑下する心ではないでしょうか。

 ところが阿弥陀仏は平等です。どんな愚かなる者にも一番上を許すのです。だからこそ「私のような者」の往生が許されたのではなかったでしょうか。一番上を許されているからには、ありがたく一番上をめざさせていただくべきなのです。「私のような者だから一番下で十分」という心には、阿弥陀仏の平等の心を疑う心が隠されているのではないかと思います。

九品の区別は、何のためにあるか

 一生涯を生まれつきの煩悩のままに過ごすとすれば、私たちは、置かれた環境さえそろえば、最悪の悪人ともなりえます。

 しかしそんな人でさえも、死ぬ間際に阿弥陀仏に帰命すれば、この世においてひとつの善行なくとも、下品下生という往生が許されます。下品下生の往生人は、極楽で蓮華の花の中に生まれ、長いことすごすうちに、やっと花が開いて仏に出会うことができます。

 それで十分ではないのでしょうか? 

「『無量寿経』では、人々を善から悪まで大きく三つに分けているが、そのうち上の人々(上輩)についても、『ひたすらにただ阿弥陀仏を念じる人』と書いてある。

 この経のこの段までには、往生が念仏によって得られることが明かされている。けれども、その念仏に区別があることを述べていなかった。ここで初めて、念仏を三段階に分けて区別している。これには二つの理由がある。

 一つの理由は、往生に三種類があるなか、中や下の往生ではなく上の往生を人々に求めさせるために、三段階の区別をもうけたということ。二つめの理由は、念仏する行者に自分の念仏の程度をわからせるために、三段階の区別をもうけたということである」 (法然上人『無量寿経釈』)

 下品下生で十分――。実は、そう思ってしまうといけないから、九品の区別が説かれているのです。もしもお念仏に上中下があることを明かさなかったら、阿弥陀仏に救われることがわかった人には、何も求めるものがなくなってしまうと感じてしまいます。しかしお念仏は、すればするほど深まっていくものです。人々がそういう念仏を求めていくようにと、九品の区別は説かれているのです。

ほんとうは、九品の区別なんてない

 それでもやはり、絶対の救いであるはずの阿弥陀仏の世界に、ほんとうにそんな区別があっても良いのでしょうか? 阿弥陀仏に絶対的に身をまかせようと思うなら、そんな疑問がどうしても湧いてこなければいけないでしょう。法然上人もこのことを突きつめてお考えになったと思います。そして、同じ疑問をもったある人に対して、次のようなお言葉を残されました。

質問「阿弥陀仏の救いに九品の区別がありますが、これは阿弥陀仏がお作りになったものですか」

法然上人「阿弥陀仏の救いの九品の区別は、阿弥陀仏の本願ではない。四十八の本願の中にも、そういう文言は見あたらない。これはお釈迦さまが私たちを導くために、たくみにお作りになった方便である。もし、善人も悪人もおなじ所に生まれると言ったら、悪業の者たちは慢心を起こすにちがいないから、九品の区別があるように言って、善人は上品に進み悪人は下品にくだるとお説きになったのだ。それは阿弥陀仏の世界を実際に見たらわかる」 (『十二問答』聖典4:434)

 このように言ってしまうと、人は二通りに受け止めると思います。ひとつは「ああ、やっぱり阿弥陀仏の救いは絶対平等でひとつなのだ」という安心です。もうひとつは「なんだ、やっぱり善いことをして生きても、阿弥陀仏の救いは悪人と同じなのだ」という油断と慢心です。ですから法然上人は、相手の心の中を読んで、相手によって説きわけたのだと思います。

 いま、上記のご回答では、相手の質問者が「やっぱり阿弥陀仏の救いは平等でひとつなのだ」と思うことが見てとれたから、このようにご回答になったのではないかと思います。法然上人はきっと、この相手が「阿弥陀仏の救いは平等のはずなのに、九品の区別をつくるなんて、おかしい」と疑問に思っていたことを、よく見透かされていたのでしょう。

 逆に「やっぱり善いことをして生きても、救いは悪人と同じなのだ」と油断し慢心するような人は、阿弥陀仏の平等の慈悲の心を誤解している人です。宗教的な救いの世界がそれだけで完結してしまい、自分の人生に宗教が生きてこない人です。そんなことではほんとうは、阿弥陀仏のせっかくの救いを無駄にしていることになります。

上品をめざすには

「上品の人とは、大乗仏教を信じる凡夫をいう。その人の修するべき行とは、菩提心をおこすなどの行であるという。菩提心は宗派それぞれに心得るものであって、いま浄土宗では、浄土に生まれようと願う心を菩提心という。また、念仏は大乗仏教の修行であり、このうえない功徳である。以上のように念仏する私たちは上品の条件をそなえているのだから、上品往生から手を引くべきではない。(中略)

 また善導大師は、『念仏を一日三万遍以上となえるのは上品上生のおこないである』とおっしゃった。数多くお念仏することによって、上品に生まれることができる。
 また信心にも、あつい信心からよわい信心まで、九段階あるはずだ。あつい信心によって上品に生まれることができると、私は思う」 
(法然上人『三部経釈』聖典4:297)

 下品とは、死の直前までお念仏に出会えず、悪業ばかりを積んできた者の生まれる先として示されています。中品とは、上座部仏教の戒をたもつ修行者や、世間一般の道徳を守って暮らす者の生まれる先です。いずれも私たちの置かれた状況とは異なります。

 そして上品とは、大乗仏教を信じ、その行をおこなう人のことです。私たちは、浄土に生まれたいという心をおこし、念仏という大乗仏教の行をおこなっています。ならばどうして、下品や中品を願うことがあるでしょうか。私たちは、上品の往生をめざすべき人間なのです。

 それでは、いかにすれば上品に往生できるのでしょうか、それにはたくさんのお念仏をすることと、信心を深くすること。これしかありません。善導大師のお示しによれば、一日に三万回以上もお念仏をするような人は上品上生に生まれるということです。

 九品仏の九体の阿弥陀仏像は、実はひとりの阿弥陀仏です。しかしお釈迦さまが説かれたように、お念仏にはげめばはげむほど、お念仏の深さを味わうことができるのです。そうすると、実は最初に見たときの阿弥陀仏とはちがった阿弥陀仏の姿が、つぎつぎと発見できる。それを現したのが、九体の別々の阿弥陀仏像なのだと、私は思います。